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会議など編纂室関係 史跡調査など外回り 村外での調査 聞き取り調査


平成15年4月30日

 家串泉法寺聞取り調査(織田、寺岡)
 泉法寺住職少林孝純氏に泉法寺のことについて聞く。泉法寺はもともと「孤圓山如意庵」という庵寺で、後に平城興禅寺の十四世雲児叟白大和尚によって開山され「佛海山泉法寺」と改号したという。伊能忠敬も宿泊したというが、火災によってその記録、遺物は焼失してないという。
 また位牌堂を見せてもらう。家串は織田、前田、浅野、黒田、加藤など戦国武将の苗字を多く持つ変わった集落。それぞれ苗字ごとに同じ家紋を持っているようだ。家紋を調べるのもおもしろいかもしれない。
 家串浦組頭の吉良家の墓石を確認したが、古いものはないようである。

平成15年4月23日

 由良半島船越の五輪墓調査(織田、寺岡、増田一正)
 吉良六男氏より聞いた船越の五輪墓について織田、寺岡が現地へ行く。なかなか所在を確認することが出来なかった。たまたま通りかかった増田一正氏に場所を教えてもらった。ここの五輪墓はもともと別の場所にあったものをまとめてここに祀ったそうである。五輪墓は特に銘がないので誰の墓かはわからない。
 観音崎の西国三十四か所を調査(織田、寺岡)
 船越の神社から観音崎の尾根道に登り、そこから岬まである。石造りの観音像が転々と並ぶ。神社側から一番、二番と番号が刻まれている。岬の観音堂までに88体もあるのかと期待したが、三十四番までであった。観音崎へ行く尾根道の「馬ノ背」はへんろ路の比ではない。両端がほぼ垂直の断崖絶壁。落ちたら確実に死ぬだろうなと思いながら歩いた。岬の突端にある観音堂からの景色は実に絶景。
 船越在住の谷口虎一氏に話を聞くと西国三十四か所であるという。また吉良家の墓は県道から船越におりる道のところにあって今はないとのことである。五輪墓は関係ないのかもしれない。
 また谷口氏によると、船越城は下灘側の配水タンクのあるあたりというが、船越地区後背の山一帯に施設が点在しているのではないかという。これを聞いて寺岡の目が光る。また道なき道を駆けずりまわされるのだろうか……。

平成15年4月22日
 村内公共機関等に旧村史復刻版配布(柏地区)
 前日に配ることの出来なかった柏地区の公共機関に旧村史復刻版を配布。農協、郵便局、駐在所、小学校、保健センター、診療所、公民館、DE・あ・い・21、商工会、老人ホームに配布。
 御荘町長月に住む吉良六男氏より聞き取り調査。(織田、寺岡、増田一正)
 
増田一正氏の紹介で長月に住む吉良六男氏を訪ね、家串浦組頭吉良家について聞く。吉良氏自身が調べ上げまとめた「吉良家の歴史」を写真撮りする。旧村史には断片的にしか記されていない吉良家について詳細にわかった。特に吉良家に伝えられている系譜がわかったのは大きな成果である。家串浦の吉良家は、長宗我部元親の弟、吉良親貞が開祖ということである。しかし通説と没年があわないのが疑問である。
 また吉良氏の話によれば船越にある五輪墓が吉良家初代から5代までの墓という。
平成15年4月21日
 村内公共機関等に旧村史復刻版配布(魚神山〜柏崎)
 村内の公共機関に村史復刻版を配布。魚神山では小学校、保育所、農協、郵便局に配布。家串では農協、郵便局、小学校、保育所、海洋センターに配布。須ノ川では中学校に配布、中学校では酒井校長と1時間以上も村史について話し込む。酒井校長も歴史が大変好きなようだ。おかげで柏崎の漁協に配るときには日も暮れかけになっていた。柏は配ることが出来なかった。
平成15年4月18日

 村内各自治会長・区長に各戸配布の旧村史復刻版を搬送
 村内に旧村史復刻版を配布してもらうため、各自治会長・区長宅を訪問。家串、魚神山、網代と配布した。網代では新御霊神社の前で自治会役員数名が春祭りのため飲んでいた。役員さんたちに声をかけると話題は先日の由良権現での我々の醜態の話し。実に赤面の至りである。そのあと油袋、柏、須ノ川、平碆、柏崎の順で配布完了。
 須ノ川法華石城を調査(織田、寺岡)
 
寺岡調査員が法華石城に行ったことがないというので、連れて行く。廓跡、土塁跡、犬走など案内すると、寺岡は嬉々としてそれ以外のものはないかと林の奥に入っていく。つ、ついていけない……。

平成15年4月13日

 由良権現再建(織田、寺岡、教委金田孝一、同松田恵、同島内一男、同池田大作、同中井三恵子)。
 網代地区の人たちが崩れていた由良権現を祀りなおすというので、由良権現に行く。
 10時過ぎに車で網代に向うが、網代の人から連絡があり、もう再建はすんだとのこと。それでも網代へ向う。
 網代に着くと池田が腹痛を訴え、近くの民家にかけこんだ。そのせいで大幅に時間が遅れる。網代からは高魚岩夫さんの船で由良権現直下の浜に行く。急斜面をヒイヒイ、ハアハアいいながら一気に登った。登ると網代の人たちがわざわざ待ってくれていた。ありがたい。疲労困憊の我々が由良権現に着くと網代の人たちから「お前ら、情けないのう」と笑われた。由良権現の崩れた社殿の木材は撤去され、かわりに小さな祠が安置されていた。網代の人からお神酒を勧められたが、とても飲める状態にない。
 網代の人たちが帰った後、由良権現について調査。特に教育委員会に残る社殿の写真が由良権現であることを確認出来たことは大きな成果。瓦礫を調べたが棟札は見つけられなかった。
 帰りは由良権現から尾根道の往還道を通り網代まで帰る。内海側の道は良いが下灘側の道は狭くて少し危険。けどなかなか良い遊歩道だ。
 今日は自然を満喫できた一日だった。ビールが美味い!

平成15年4月12日

 三間の毛利家古文書保存会総会に参加(織田)
 
柚山俊夫氏の誘いで、三間の毛利家古文書保存会に出席。南予の郷土史のお歴々が勢ぞろいしており、圧倒された。入会を申し込んだところ、暖かく迎え入れてくれた。古文書についての読解力を深めたい。またわざわざ時間をいただいて内海村史編纂事業についての協力を依頼することができた。
 
内海村史編纂室のネットワーク工事
 宇和島の大下武弘氏とうちうみホームページ作成委員会の人たち(横山修治、兵頭堅次、児島洋裕、松本賢一、島内一男)により、編纂室のネットワーク工事を実施。インターネットが利用できるようになる。工事終了後、ホームページ作成委員会恒例の飲みが始まる。

平成15年4月3日

 内海村史編纂室移転(織田、寺岡、総務課臨時職員中川豊士)
 DE・あ・い・21クラブハウス4が手狭になったので、3階の旧記帳指導室へ編纂室を移転する。総務課臨時職員(運転手)中川は役場に雇われたばかり。机に座っているのが苦痛ということで引越しを手伝わせた。本人は喜んで手伝ってくれた。