編纂日誌目次へ戻ります

会議など編纂室関係 史跡調査など外回り 村外での調査 聞き取り調査


平成15年5月28日
 家串地区の史跡を調査(織田、寺岡、宮川茂朗)
 家串地区にある史跡を調査、寺岡が家串の史跡の写真を撮りたいというので急遽現地調査をする。給食センターの宮川が暇そうなので連れて行く。今日だけで白牛車観音のある家串と平碆の峠道、寺山、三宝荒神のある山と三つも山を登らされた。最近寺岡にこき使われているように感じる。今日付き合わされた宮川はいい迷惑だろう。
平成15年5月19日
 柏崎学校跡地の調査(織田、寺岡)
 
柏崎学校跡地の碑を調査。この石碑は昭和50年に柏小学校開校100年記念に立てられたものである。民家の敷地内に立てられていた。旧村史には柏崎学校は明治13年に建てられ、翌年秋に台風で倒壊したとある。運動場はなかったのだろうか?石碑以外には残念ながら、当時をうかがわせるものは一切なかった。所在場所については確認する必要がある。
 柏崎簡易水道開設記念碑調査(織田、寺岡)
 柏崎簡易水道開設記念碑を調査。この石碑は昭和28年11月20日に立てられている。この簡易水道が平成8年まで使われていた。
 柏消防車庫横記念碑調査(織田、寺岡)
 
柏消防車庫の横にある記念碑について調査する。もともとこの石碑は高橋商店裏(現給食センターか?)にあったものとのこと。石碑は昭和9年に建てられ、寄付者名が羅列してあり、皇太子殿下□□記念と題されている。消防に関係するものと思われるが、更に調査を要する。
平成15年5月15日
 柏地区金峯神社ほか祠、石碑を調査・写真撮り(織田、寺岡)
 柏地区の氏神、金峯神社を写真撮り。
 樫元眞幸氏倉庫横の地蔵、高橋定幸氏宅前の地蔵、山口將一氏宅横の地蔵を写真撮り、これら地蔵についての由来は定かでない。山崎橋近くの石灯籠、へんろ路標石を写真撮り。高橋富士雄氏宅の拝高神社調査、特に銘はなく石灯籠と不思議な形の石があるのみ。
 脇田筋の地蔵を調査、これはお墓のようだ。ここについては地元の人に聞き取りが必要。寺岡調査員が写真を撮ると青白いものが写り、寺岡調査員は怖がって写真を消去。電池も切れたので写真撮りは中止。最近デジカメの電池がなくなるのが早い。寺岡調査員は霊の仕業と恐怖している。
平成15年5月10日
 三間の毛利家古文書調査会に出席(織田)
 菊川の藤田儲三氏とともに三間町の毛利家古文書調査会に行く。柚山俊夫氏から宇和郡地誌等のコピー資料をいただく。宇和郡地誌は各集落の人口、職業、寺社、舟数、牛馬数などが記載され、特に網代浦安樂庵、魚神山浦藤勝庵、平碆浦貴光庵、柏崎浦来光庵と庵寺名が記されている貴重な史料である。網代は明治20年代に京都から三玄院成功寺が移転し、庵寺名は忘れられている。魚神山・柏崎も今は庵寺がなくその名前も忘れられている。唯一平碆貴光庵があるのみである。
平成15年5月6日
 家串龍王権現調査(織田、寺岡)
 
家串の龍王権現を調査、この龍王権現は由来などは不明だが、大わらじを吊るす風習がある。また人形などを風葬する場所でもある。寺岡調査員が風葬場所に小さな亥の子石(直径約10p)を発見、何に使ったものか調査する必要がある。古い龍王権現の社は今にも崩れそうな崖の端にあって非常に危険。
 
家串桃地藏・三宝荒神調査(織田、寺岡)
 
家串の三宝荒神は「イボ神様」として有名。家串の通称「えのく前筋」を登りきった小高い山の途中にある。三宝荒神に行く途中に桃地蔵がある。文政12年に作られたお地蔵さんで、その後ろには首のない同型の地蔵もある。由来は不明。
 三宝荒神は境内に丸い浜石が敷き詰められ、これがイボに効くという。三宝荒神あたりの山の地形は実に不自然。段々畑跡とは思えないが、何か人工的である。砦跡のような感じがする。

平成15年5月1日
 内海村史編纂室ホームページの作成を開始(寺岡)
 寺岡調査員にホームページ作成を指示。本人は、はりきって作り始めた。あとが怖いかも……。