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●旧家串浦組頭吉良家について

 藩政期を通じて村君、あるいは組頭として家串を支配してきた吉良家は清和源氏の末流であるという。吉良といえば「忠臣蔵」の吉良上野介義央が有名であるが、これは足利氏庶流の三河吉良氏で同じ清和源氏でもまったく別系統である。
 清和天皇の後裔源義朝の7男で源頼朝の同母弟希義の子、吉良蜂郎希望が頼朝から土佐吾川郡大野荘を与えられ、吉良峯城を築城し城主となったことにはじまる。その後子孫は代々吉良峯城主として相続し土佐の名族といわれるようになった。戦国時代には長宗我部、香宗我部、安芸、本山、大平、山田氏らとともに土佐吉良氏は「土佐七守護」または「土佐七雄」などと呼ばれた。
 家串浦吉良家に伝わる系譜によると、土佐吉良氏は初代希望から18世の孫吉良駿河守宣直は天文20(1552)年9月12日に長宗我部元親に攻められ敗れ、永禄6(1564)年3月26日城を捨て讃岐青野庄に一時難を逃れ、その後伊予御庄の船越城に身を寄せた。長宗我部元親は清和天皇から続いた由緒ある家柄を断絶させるのは忍びないとして、弟親貞が吉良宣直の娘を娶っていたので吉良左京進親貞と名乗らせ吉良家を存続させた。
 一般的な通説は次のとおりである。天文9(1540)年本山茂辰は吉良駿河守宣直に奇襲をかけ、土佐吾川郡吉良城を奪取した。吉良宣直は自害して果て、ここに吉良氏は滅亡することになった。吉良氏を攻め滅ぼした本山茂辰は一時吉良姓に改姓したが、後に本山氏の家督を継ぎ、長宗我部氏と争ったが、次第に圧倒されるようになる。一方永禄6(1563)年1月28日長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を継がせ、吉良氏を長宗我部氏の配下に置いた。天正2(1574)年吉良親貞は一条氏滅亡後、中村城に入り幡多郡を支配する。
 家串吉良家の系譜では親貞は長男親實に世を譲り、御庄の由良半島に船越城を築いて居住し、宣直も親貞を慕って船越城に至ったとしている。親貞は天正10年11月26日に没し、宣直も翌天正11年1月13日に没している。親貞の2男庄太夫親義は元来病弱で兄弟が討ち死にした後(どういう意味か不明?)、父親貞を慕って船越城に来たが、親貞の没後家串に住み漁夫の親方(村君か?)となった。親義は慶長2年5月18日に没している。
 一方史実では、吉良親貞は天正4(1576)年7月15日に36才の若さで病没し、吉良氏は親貞の子で15歳の親實が継いだとされる。天正14(1586)年12月豊臣秀吉の九州征伐に従軍した元親の嫡男信親が戦死し、その跡目をめぐって元親の2男香川親和と4男長宗我部盛親を推す派に分かれ家中で争いが起こった。天正16(1588)長宗我部元親は久武親直の讒言を受け、親和を推す吉良親實、比江山親興に死を命じた。ここに土佐吉良氏は滅亡することになる。
 家串吉良家の系譜と一般的な通説とそぐわない点が多々あり不明な点が多い。吉良親義の兄弟討死というのは長宗我部氏の跡目争いによるものかもしれない。
 また言い伝えによれば、船越城が敵に攻められ、ここを守っていた武将は船で逃れたが塩子島付近でこれまでと観念し、甲冑を着たまま入水したという。家串の小字オシモリはこの武将の「お沈もり」からついた地名という。この武将が親貞なのか宣直なのか、あるいは吉良親義の兄弟(吉良親實か?)なのか詳しいことはわからない。
 江戸時代に入って吉良家は村君(漁夫の頭)、後には組頭として家串浦を支配していくこととなる。上畑地村(現津島町)、御内村(現津島町)、板尾村(後の増田村、現一本松町)、豊岡村(現松野町)の庄屋はすべて家串浦吉良家の分家である。4か所に分家した吉良家と家串の吉良宗家を合わせて五吉良または吉良五家と呼ばれていた。五吉良ともに屋敷内に祠を建て、そこに吉良大明神として先祖を祀り、一年ごとに系図を持ち回り一緒に先祖の供養をした。これを吉良講という。吉良講は昭和2(1928)年ごろまで続けられ、その間それぞれに系図の書き写しが行われたという。
 吉良家は8代義廣のときに正式に組頭として任じられ、代々組頭を務め15代義利(吉良二三)の時に明治維新を迎える。16代吉良貞松義重は明治7年に愛媛県第14大区から組頭に任じられている。組頭は後に組長、伍長などと役職名が変遷している。明治31年には初代家串区長になっている。
 17代吉良義利は大阪府立尋常中学を卒業後、家業を継いで酒造業を営む傍ら大網元として活躍し、明治44年4月16日に家串郵便局が開局されると32歳で初代局長となり大正7年までその職にあった。大正3年から村会議員として5期努め、また内海村漁業組合長としては20年間勤めた。戦後、吉良家は大坂方面へ移住し、現在は吉良家を偲ぶものはあまりない。



旧吉良家屋敷
現在のえひめ南農協家串出張所の敷地が吉良家の屋敷であった。 今も残る吉良家の土蔵。今は農協の倉庫として使われている。 農協職員によると、ダンボール置場にしているが、猫が住着いて「猫屋敷」と呼ばれているとか?

金刀比羅神社
農協家串出張所建物裏の金刀比羅神社。家串の金刀比羅神社は古い神社台帳にも記載されていない。吉良家の屋敷神だったのではないかという。 社殿内部。社殿は平成4年に立て替えたようで立派だった。 平成四年七月吉日 地鎮祭礎石 金刀羅神社建設委員会と書かれてあり、役員名が記されてある。
狛犬。これは以前の社殿からあったものだ。 「金比羅宮」と書かれた札を発見。これは多分、平成4年の建築時のものだろう。 木彫りのなかなか味のある狛犬。

調査風景
農協裏の細い路地の奥に「金刀比羅神社はある。 失礼が無いよう調査前に御参り。 隅々まで調査。

雲邊寛州顕彰碑
家串産業組合の祖、雲邊寛洲の顕彰碑 泉法寺住職の雲邊寛洲は明治39年の赤痢流行により貧困にあえいでいた家串に産業組合設立を訴えた。

家串に残る古い家並み
農協横の「かどや旅館」こと吉良一邸。真珠景気で新築ラッシュがあったにもかかわらず残った、古い建物。実に貴重である。 家串の菩提寺、泉法寺へ向う細い路地。左は農協の倉庫、みぎは「かどや旅館」。 家串、伊井泰成邸。家串は漁村集落にもかかわらずこのような建物が多かった。
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