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●家串泉法寺

家串にある佛海山泉法寺は、その開基について詳しい寺伝は伝わっていない。ただ天正年間に土佐から来住した吉良家によって建てられたものではないかと推察される。古来より数回の焼失により記録のいっさいが失われ、過去を窺い知ることははなはだ困難ではあるが、断片的な史料をまとめてみる。
 天和元(1681)年にまとめられた井関盛英著「宇和旧記」によれば、御荘興禅寺の末寺として「孤圓山如意庵家串(へのくし)にあり、畑廿五歩あり、」とある。また、大正時代にこの「宇和旧記」を世に出した西園寺源透は「佛海山泉法寺内海村大字内海家串にあり、右泉法寺は如意庵の改名にはあらざるか。」と注釈で記している。
 貞享元(1684)年に井関安右衛門元禄がまとめた「弌墅截」でも「家串浦如意庵」と記されている。宝永3(1706)年にまとめられた神尾運慧編纂「大成郡録」の内海浦の項では「平城興禅寺末家串禅孤圓山如意庵」と記されている。
 寺の過去帳によると開山は興禅寺十四世の雲児叟白大和尚であるが、その前に没年不明の「如意庵前住中興、江山壽泉和尚」、元和10(1624)年に没した「当庵前住、法器宗悦知藏禅師」、延宝7(1679)年に没した「当庵前住、助岩乾佐知藏禅師」の名が見られ、いずれも如意庵時代の住職と思われる。如意庵は吉良家の移住以前に存在していた可能性もあるが、その没年から考えて吉良家の移住と何らかのかかわりがあるものと推定される。なお、吉良家初代の位牌には「西林院殿宗寒大居士、天正十壬午年十一月廿六日」とあり、裏面には「船越城墓所有、吉良元祖」と記されている。吉良家の初代は長宗我部元親の弟吉良親貞と伝えられている。
 開山は興禅寺十四世の雲児叟白大和尚で、泉法寺の他に広見村(現一本松町)の法眼寺も開山している。雲児叟白大和尚は宝永2(1705)年7月12日に没し、二世大鏡圓宗大和尚が来るまで平僧地(導師が立つことのできない寺)の取り扱いを受けたものと思われる。
 過去帖によると開山雲児叟白大和尚と二世大鏡圓宗大和尚の間に、延享2(1745)年9月29日に没した「前住中興、日向法山首座」、明和9(1772)年8月21日に没した「当寺再中興、俊翁千山首座」、文政11(1828)年2月15日に没した「当寺前住、地山謙龍首座」、天保6(1835)年に没した「当山前住、嶺鳳祥雲首座」の名がある。
 この時代は、柏村の法性寺と同じように平城村興禅寺から資格を持つ僧が開山したがそののち平僧地となって預り僧が管理していたものと思われる。
 なお、「如意庵」から「泉法寺」と名を改めたのは延享年間(1744〜1746)で日向法山首座の時のようである。
 文化5(1808)年閏6月6日には公儀測量方の伊能忠敬一行が泉法寺を宿としている。同年12月8日測量方の接待の褒美として綾布一反を下し置かれているが、寺にはこれに関する資料は焼失して残っていない。このときの住職もはっきりしないが、没年から考えると文政11(1828)年没した地山謙龍首座であったと思われる。
 二世大鏡圓宗大和尚、三世孤雲欣竜大和尚が住職となった年代もはっきりしない。
安政年間(1854〜1860年)には泉法寺の寺子屋教育は盛んに行われていたと伝えられている。
 四世孤岳先峰大和尚は伊勢の生まれで武家出身、禅学の造詣深く、かつて京都にのぼり参内して御綸旨を受けたことのある僧と言い伝えられている。この和尚も住職となった年代ははっきりしないが、この和尚の代では泉法寺の寺子屋は常に30人の門下生が通い、晩年には女性も数名通っていたという。この寺子屋は正月三が日、五節句、地方祭及び盆二日の休みを除いてずっと開かれていた。夏は午前6時、冬は7時に始まり、四季を通じて午後4時ごろ終業し、授業科目は読書、習字、珠算であった。この寺子屋が明治8年に愛日学校となった。孤岳先峰和尚は明治12(1879)年7月26日に没している。
 五世瑞ー和尚(日高瑞ー)は明治15年から明治24年まで、六世隆光和尚(道平隆光)は明治24年から明治30年まで、七世天暁和尚は明治30年から明治35年頃まで住職を務めていたと思われる。七世天暁和尚(長谷天暁)の時の明治32年に本堂が建立されている。
 八世泰岳寛洲大和尚(雲邊寛洲)は、明治35年、27歳の若さで泉法寺住職となった。その数年後の明治39年、家串地区は赤痢の流行と数年来の不漁で困窮を極めていた。この惨状を目の当たりにした寛洲和尚は、家串を救うためには相互扶助の産業組合を設立して、不況に備え民生の安定をはかることが急務であるとして部落有志に働きかけ、明治44年県下でももっとも早い家串産業組合を設立させた。
 寛洲和尚の後には九世天外義道大和尚(野口義道)が住職となったが、この和尚はすぐに還俗して新居浜方面へ移住したという。
 十世南嶺泰純大和尚(少林泰純)は、昭和12年ごろより泉法寺の住職となり、家串主婦人会長に推され、修養団体土曜会を組織して教化をはかるなど積極的に働きかけて部落の帰依も厚く、また説法師としても名をなしていた。(高橋紅六著「南風」より)。昭和28年5月私立家串保育所を開設し、内海村における幼児保育の嚆矢をなした。この保育所は昭和42年に統合され、現在は村立ふたば保育所となっている。
 泰純和尚は昭和45年12月24日に没し、その後、孫の十一世少林孝純和尚が住職となり、平成2年9月25日に本堂、位牌堂、庫裏が改築され、現在に至っている。



泉法寺
泉法寺本堂、平成2年に建立された立派な本堂。

旧家串浦組頭吉良家初代の位牌
吉良家初代の位牌表面。「天正十壬午年、西林院殿宗寒大居士、十一月廿六日」と記されている。 裏面。「船越城墓所有、吉良元祖」と記されている。吉良親貞と伝えられている。

歴代住職の墓
歴代住職の墓。本堂裏にひっそりと佇む。
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